幽霊ボート

 1954年1月15日、徳島県の鳴門競艇場で行われたレースにおいて、その判定写真の中に、その場にはいなかったはずの黒いボートが写り、これは幽霊ボートではないかと騒ぎになった。

 「幽霊」という言葉が使われた背景には、その前年の12月24日に佐賀県の唐津競艇場で、レースの練習中に「横溝幸雄選手」が事故死しており、その横溝選手の霊が現れたのではないかと言うことだった。

 この事件は徳島新聞に掲載されて様々な波紋を呼び、鳴門市議会でも議論されたが、「多分、蜃気楼のようなものだろう。他の県の判定写真でもこういうことはよくある。」ということだった。

 しかしこの2ヶ月後の3月に行われたレースでも、その場にいなかったはずのボートが判定写真に写っているという事件が再び発生した。これも徳島新聞が3月17日付けの新聞に掲載している。

 そして5月2日、今度は丸亀競艇の第2レースの判定写真にも、その場にはいなかったはずのボートがはっきりと写っていた。このニュースは四国新聞が5月12日付けで「幽霊ボート出る!丸亀競艇殉職選手の亡魂?光線の屈折現象か。ナゾの写真判定を依頼」の見出しで掲載している。

 競艇ファンの間では、やはり横溝選手の幽霊だ、いや、レース中に追突事故で死亡した西塔選手の幽霊だ、などど囁かれた。しかし複数の競艇場で似たような写真が取られたということは、写真を撮影するカメラの方に問題があるのではないかと、今度はカメラに疑惑の目が向けられた。

 当時撮影に使われていた「スリットカメラ」は、くしくもこの事件と同じような時期に新たに採用されていたカメラであった。「スリットカメラ」とは、フィルムの直前に縦長のスリット(隙間)が設置されていて、カメラの前を通過していく像を、フィルムを巻き取りながら順次記録していくカメラで、競馬の判定にも使われるようになったカメラである。そのカメラがこの時期、実用化されて競艇場に設置されていた。このカメラにしてから心霊写真のようなものが撮られ始めたということは、カメラに原因があるのではないかということで調査がなされた。

 そして調査の結果、スリットの部分以外にも隙間が開いていると、他のボートも画面に像を作ることが分かった。また、フィルムを巻き取る際、二重に写ることもあるということが判明した。この調査によって、これらの写真は心霊写真ではないと結論づけられたが、この結果はあまり発表されることはなかった。あくまでも心霊写真のままにしておいたほうが話題性もあり、人々の関心を引きつけると判断されたからである。

 この幽霊ボートの怪談は、「内外タイムス」と「週刊サンケイ」も記事にし、これによって地方のニュースであったこの事件は全国的に知られることとなった。

 この騒動が一段落着き、世間からも忘れ去られようとしていた1957年、内外タイムスは8月15日付けで再びこの事件を記事にした。今度は事件の発端から後日談までを長編の文章にし、前回よりもより強烈に人々の関心を集めた。

 そしてその約3年後。1960年、5月23日付けの「東京毎夕新聞」が、またもやこの事件を一面トップで掲載した。

 東京毎夕新聞は、こういった話題を得意としていた新聞であって、大々的に報じられても別に不思議はなかったが、この事件はニュースとしてはすでに過去のものであり、一種の怪談として掲載された感が強い。この改めて報じられた東京毎夕新聞の記事の中には、問題の写真を現像した日本判定写真株式会社の掛飛氏の見解も掲載されており、それによると、「レース場の日付台に水しぶきがかかり、その水がひいた時にそこをボートが通過すると日付台が鏡のようになり、そこに写ったボートが写真にも写ったのだろう」という趣旨のことを語っていた。

 これに対し全国モーターボート競走連合会・業務部長の中北氏はこの意見に否定的で、もし日付台が原因ならば、1954年から今まで1万回以上のレースが開催されているのに、その間に同じような写真が全く撮られていないのはおかしい、というのである。つまり、モーターボート競走連合会は心霊写真であることに肯定的であったことになる。中北氏の意見は、先のスリットカメラの件にも当てはまる。

 そして1963年7月24日、事件が起こる。横溝選手と同郷の小笠原政敏選手が、鳴門競艇場でレースの際中に、あの「心霊写真」を撮影した写真判定柱に激突して死亡してしまったのである。この因縁めいた大事故に場内も騒然となり、横溝選手が小笠原選手をあの世へと連れて行ったのではないかとしきりに話題となった。





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